死にたがりのパラドクス

心身共に健康な死にたがり引きニートの日記

原点回帰

2年くらい前に書いた文章を発掘、
文字数は3000程。

いやぁ、若かった。

ニートとかモンスターシングルを社会問題として、
深刻そうに語るテレビにイラっとした勢いで、
ババババーと書いたの。
何の番組だったかも覚えてる。
評論風味な反論というか言い訳というか、
自分語りがうざい感じ、何様じゃコラ(# ゜Д゜)ってなる。
(自分で書いたのに(笑))

まぁ、
このノリでブログをやろうとしたニヒリズム万歳な私は、
ナマケモノな私に敵わなかったようなので、
このブログはだらっと、おやつの話とかを書けるのです。


よかったー(*´ω`*)


↓にちょっと手直ししたやつ貼っときます。
恥ずか死にそうになったら削除するかもしれませんが。

批判したいターゲットは、
ニートを(無理矢理にでも)更正させようとする人、
死にたくない人、幸せになりたい人、
かな。



 私は惰性で生きている。働きもせず、親の家に住み、親の金で食い、生きている。もちろん独身者だ。先日、親の部屋のテレビで見たのだが、私のような者──実家に住み、働かず、年老いた親に金銭的に依存する独身者──の内、35~44歳の者をモンスターシングルと呼ぶらしい。いわゆるブラック企業で心身を壊し無職になった者、あるいは親の介護の為に離職した者もそう呼ぶ。と随分と乱暴な事で、今(※2016年夏)のところ浸透した呼び方ではないだろう。ニートが15~34歳と定義されているので、私はニートだが、このまま生きていれば、そのうちモンスターシングルに進化する。45歳以上はどう呼ぶのか。45にもなれば、結婚するか、自立するか、親は死んでいるという考えか。不思議なものだ。
 ところで、ニートとは就学・就労・職業訓練のいずれも行っていないことを意味する、らしい(Wikipediaより)が、一般認識としては、労働する能力を持ちながらも働く意欲の無い者だろう。私ももれなく働く意欲が無い。何故か。生きる意欲が無い為である。といっても、これは私の例であり一般ではない。しかし、私だけかというと、そうでもないはず……無職の者には積極的に生きる意欲の欠けた私と近い者がいると信じている。彼らが現在も生きているかは別として、がつがつとした貪欲な人間には認識すらされないような、動物としての本能さえ忘れかけた人間は確かに存在する。働くなら死ぬ。そう断言する青年達をあなたはどう思うだろうか。ならば死ね。赤の他人なら、それで済むことかもしれない。人間は簡単に死ぬ。働き過ぎて死に、働けなくて死に、働き口を見つけられなくて死ぬ。学業さえ全うせずに死を選ぶ者もいるし、恋人にフラれても死ぬ。そうして、若者は死に、生き残りは生と財にしがみつく老害の世話に追われ、次代の子は増えず、教育も滞り、日本は衰退の一途を辿る。弱った日本の領域を周辺諸国が侵し、防衛の為にと某国の傀儡となる。妄想と嘲笑ってくれるなよ。既にそうなっているのだから。
 経済は成長し続けるし、豊かさとは金銭や財産である、と盲信した時代は終わった。無条件に将来に希望を持つ時代はもう終わっているのだ。金銭は失うものであり、必死に追い続ければ人の縁さえも失う。財を築けば、後は死ぬまで失う事に怯える。自分を支えてくれるはずの世代は減少し続け、老いた国の負債に埋もれる。今日を、明日を食い繋ぐ事しか考えられない先進国。天災に怯えるも、備える力すらなく、逃避的に日々を過ごす。必死に働き、育て、支え、生きる国民には、私には到底真似することのできない強かさがある。
 彼等は食う為に働くという。生きる為には働かねばならぬと涙し、死んでいく者もいる。本末転倒ではないか。だから私は断言しよう、食う為に働いてはいけない。『働くなら死ぬ』この言葉の本意はそこにある。ただ生命を維持する為の労働は、いたずらに虚しさを増大させるだけだ。苛立ち、焦り、虚しさ、孤独、憂鬱、そして、絶望。この無意味な苦行の先に何を得るのだろうか。
 しかし、現実にはこの苛酷な環境に身を置いているという者が多くいよう。彼らは口を揃えてこう言うのだ。自分も耐えている、甘えるな、と。だったら、私は問いかけたい。あなたは今日死ねますか、と。死ねないなら、つまりは希望があるという事ではないか? 食う為でなく、希望の為に働いて生きているのではないか。また、死に対する恐れは、死そのものではなく、自身の死の影響を恐れているのではないか。その恐れも、生きる希望の一つであろうが、希望を持てることの幸せを意識する人間はいるだろうか。当たり前だが、希望を失うことを絶望という。希望なくして、絶望もない。真に絶望した時、人は生きることをやめるが、直ぐに死ぬ訳でもない。死というゴールに辿り着くまでの道程は人それぞれで、絶望の爆発的なエネルギーで一気に逝く者もいれば、希望と共にエネルギーを失って立ち竦む者もいる。
 ところで、私には箸が転がっても死にたがるという厄介な持病がある。恒常的な生きる意欲、希望というものが欠落しているのか、その場しのぎの希望がふとした拍子に傷付き、簡単に絶望するのだ。朧気な記憶を辿れば4~5才の頃には既に死を望んでいたので、かれこれ20年以上の付き合いがある──これはもう、プロの死にたがりと名乗っても良い気がするが、人付き合いのほとんどない私には名乗る相手がいない。それなのに何故生きているのか? 答えは簡単。まだ死んでいないだけであり、人生では一度しか死ねない為だ。つまり、私は生きているのではなく、今現在も死の過程にある──のだが、納得するふりや理解した気になる人は見たくないので、今まで他人に話さないでいた。ほら、偽善者の同情なんて虫酸が走るだろ?
 話は戻るが、人生では一度しか死ねないのだ。たったの一度だ。生きていれば何度でも人生をやり直せる、と何処かで聞いたが、死は皆平等に一度きりしかない。未遂を繰り返してまで必死に生きたくもないし、未遂の為に強迫的に完遂するのも遠慮したい。そもそも死ぬ為に努力するなんて真平御免だ。私は面倒臭がりだから、きっちり一度で死にたいのである。暇潰しに自傷こそすれ、死ぬ時は潔く逝きたいものだ。と言いながら、私はかれこれ20年以上、生きている。そう、生きているように見えているはずだ。しかし、本当の意味では生きてはいない。未だ死という過程で管を巻いているだけの怠け者である。そして、私程、死に拘る人間も稀だろう。愛しているといっても良い。そして、同時に生きている事に、人間に、個人に、社会に、国に、世界に絶望しつつも愛することは止められないでいる。生も死も、善も悪も。絶望するくせ、どこかで期待し、憎んではまた愛す。生き続けている死にたがり。いつでも死ねるのに、気付けばいつも後回しにしてしまう。
 つまり私は矛盾している。矛盾が皮肉という鎧を着て歩いている。私を支える唯一無二の味方の死を望み、憎い親の稼ぎで生活を送るのは、惰性の為だ。自立したことのない私は働くことが出来ない。夏休みの小学生の様に暮らすことしか出来ない。私の自我は何かにつけて死を望む、そんなただの子供だった時のままで、それ以外の、大人の生き方を知らない。死なないように日々をやり過ごし、周囲を誤魔化し続ける。生きる意欲がそもそも無いのに、食う為にと職探しでもさせてみろ。絶望の爆風に追われ適当な自殺を遂げようと騒ぎを起こすに違いない。私というキチガイ宇宙旅行よりも殺人を望む。呆れ、いや、最早笑えてくるね。
 日々ニュースは事故、災害、自殺、殺人にテロと様々に死を垂れ流す。こんなにも──そう、かれこれ20年以上も──死を望み続け、生を耐え忍んで枕を濡らす私を差し置いて、人間はいとも簡単に死ぬ。ふつふつと苛立ちがわき上がる。じりじりと焦りが背を焦がす。ぐさりと悲しみが胸を貫く。同時に人間の死に興奮し、歓喜する。私は自分自身の矛盾に絶望する。そして、虚しさが全てを飲み込み、私の根底にゆっくりと染み込んでいく。立ち止まれば、そこにあるのは生も死も、時間さえも関係ない無限の虚無感だけ。厄介なことにこれは私の内にありながら、私の幼い自我を私諸とも殺し得る。だからこそ……立ち止まれば、すぐにでも死ななければいけないと思うから、私は死に向かう歩みを止める訳にはいかない。
 いつの日か私の自我か、この虚しさが私を殺すだろうが、その日までは、この行程の副産物である日々を、死ぬまでの暇潰しにぐだぐだと綴ってみるのも一興かもしれない。



──以上、
なんか、うざいでしょ(笑)

あと、口調が古臭い、逆接が多いのは、
昔からの癖ですね(・-・)